2009年06月19日

急性骨髄性白血病の治療

治療方針はAPLかAPL以外のAMLかで大きく異なる。年齢50歳以下、パフォーマンスステータスが0~2、inv(16),t(8:21),t(15:17),de novo AMLは予後良好群であり、46XY,-Yは予後中間群、複合型染色体異常は予後不良群である。未治療急性白血病の第一選択は化学療法であるが予後不良群は化学療法での治癒は期待できず、造血幹細胞移植や骨髄移植が検討される。これらの治療は適応が狭く、一般には50歳以下でHLAの一致したドナーがいる場合に適応があると言われている。近年は分子標的薬、抗CD33抗体であるゲムツズマブなどを用いることもある。化学療法では寛解導入療法と寛解後療法に分かれる。寛解導入療法は完全寛解(CR)を導くための治療法である。完全寛解とは体内の白血病細胞が10の10乗個未満(発症時は12乗個以上ある)となることで骨髄、末梢血中の白血病細胞がほとんど消失し、正常の造血能が回復した状態のことをいう。白血病細胞が完全に消失したわけではないのでこのままでは再発が必発であるので、寛解後療法を行う。寛解後療法には寛解導入直後に行う地固め療法と間欠的に強力に行う維持療法がある。
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non APL
IDR(イダルビシン)とAra-C(シタラビン)が寛解導入療法では標準的である。寛解後療法としてはAra-C大量療法が選択される場合が多い。
APL
寛解導入療法としてはATRAによる分化誘導療法が用いられる。オールトランスレチノイン酸とDNR(アントラサイクリン)の併用、寛解後はDNR単独療法、維持療法としてはATRAと他の抗がん剤の併用が行われる場合が多い。APLでは播種性血管内凝固症候群を起こしやすく、レチノイン酸症候群という治療中の合併症もある。肺水腫のような病態になるのでその場合はステロイドパルスを行う。

2009年06月01日

ツァーリ・ボンバ

ツァーリ・ボンバ(英語:Tsar Bomba、ロシア語:Царь-бомба、爆弾の皇帝の意)とはソビエト連邦が開発した史上最大の水素爆弾RDS-220のこと。単一兵器としての威力は人類史上最強ともいわれる。1961年10月30日、広島型原子爆弾『リトルボーイ』の3300倍というこの50メガトン級核爆弾の爆発は1000キロメートル離れた場所からも確認でき、その衝撃波は地球を3周した。

RDS-220の開発時のコードネームはИван(イワン)といい、爆弾の皇帝を意味するツァーリ・ボンバは西側諸国がつけた名称であるが、現在はロシアでも広く用いられている。この名称は、クレムリンに展示されている、世界最大の鐘ツァーリ・コロコル、世界最大の大砲ツァーリ・プーシュカに由来している。両者とも、その巨大さゆえに一度も鳴らされたり、発射されたことはない。
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ソビエト首相ニキータ・フルシチョフは1961年7月10日、第22回ソビエト連邦共産党大会開催中の10月下旬にこの爆発実験を行うよう指示を出した。その時点で実施日まで15週しかなかったが、実験に用いるRDS-220はすでに完成していた。

この当時、世界情勢は極めて緊迫した状態にあった。1961年8月のベルリンの壁建設開始、数ヶ月前に発表されたソ連による核実験のモラトリアム中止、後のキューバ危機に結びつくキューバへの核配備計画実施などのためである。そのような状況下での実験は、世界中を震撼させた。

2009年04月29日

妻・子孫

大国主は色々な女神との間に多くの子供をもうけている。古事記には180柱、日本書紀には181柱と書かれている。

正妻であるスサノオの娘のスセリビメについては、記述がない
高志の国の奴奈川姫命(沼河比売)についても記紀神話での記述はないが、葦原中国平定において大国主の子として登場する建御名方神(タケミナカタ)が奴奈川姫との間の子であるという伝承が残されている。

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最初の妻のヤガミヒメとの間に木俣神
宗像三神のタキリビメとの間にアヂスキタカヒコネ(賀茂大神)・タカヒメ(シタテルヒメ)の二神
カムヤタテヒメとの間に事代主
ヤシマムジの娘のトトリヒメとの間にトリナルミ。以降、トリナルミの系譜がトリナルミ以下9代列挙されている。
大国主の求愛を拒んだ女性に、出雲郡宇賀郷のアヤトヒメがある。拒んだ理由として、スセリヒメが嫉妬深い性格であること、スセリヒメの嫉妬を想像したヤカミヒメが子供を斐川町直江で放棄し、故郷の因幡の国にもどってしまったことがあげられ、「出雲風土記」に記載されている。

2009年04月14日

中越戦争

中越戦争(ちゅうえつせんそう、Sino-Vietnamese War)または第三次インドシナ戦争は、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国 の間で1979年に行われた戦争。中国が支援していたポル・ポトのクメール・ルージュ政権は、カンボジアで大量虐殺を行っていたが、ベトナムによるカンボジアへの大規模な侵入と占領 (Cambodian-Vietnamese War) はこれを終わらせた。この占領に対抗し、中国はベトナムへの侵攻を開始した。中国軍はベトナムへの1月ほどの侵攻の後、撤退した。

ベトナム戦争(1965年~1975年)終結直前、ベトナムの隣国カンボジアでは1975年4月にロン・ノルの親米軍事政権が倒れ、1976年1月にポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権を奪取し、民主カンプチアの成立を宣言した。しかし間も無く大量虐殺を伴う恐怖政治を行うようになった。また、ほぼ同時に成立した統一ベトナムとの間では対立が激化し、1978年1月に国境紛争によって国交を断絶した。ベトナムはカンボジアから亡命していたクメール・ルージュの軍司令官ヘン・サムリンたちを支援するという形でカンボジアに侵攻し、1979年1月にプノンペンを攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナムのカンボジア政権を樹立した。ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。

この背景には当時の中ソ対立も絡んでおり、ベトナムにはソ連が、ポル・ポト政権には中国がそれぞれ後ろ盾となっていた。ベトナムとカンボジアが親ソ連となったことに対応し、当時、ソ連への敵意が強かった中国の鄧小平と華国鋒は開戦を決断した。中国にしてみれば、ベトナム戦争で中国の支援を受けたベトナム政府が親ソ連となり、中国から援助された武器も使って、中国の友好国であるカンボジアのポル・ポト政権を崩壊させたことは、恩を忘れた裏切り行為と映った。また、主に旧南ベトナム地域の華僑に対する国外追放、収容所送りなどの弾圧策にも、その華僑が中国の共産主義と相容れる存在ではなかったとしても強い反発があった。一方、当時のベトナム政府にとっては、カンボジアとの未確定の国境問題、ポル・ポト政権が、カンボジアのベトナム系住民への迫害を含む恐怖政治を行い、ベトナムに大量のカンボジア難民が流れ込む可能性(実際には大多数はタイへ逃げ込んだ)は看過できないことであった。

戦況の推移
中国は56万の軍をベトナム国境に集結させ威圧した。1979年2月17日、中国は「懲罰行為」と称して、雲南と広西からまず10万の陸上軍によりベトナム北部に侵攻した。中国ではこの戦争と80年代の国境紛争と併せて「對越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動でもあった。この時期、ベトナム軍主力はカンボジアにあり、北部には正規軍3個師団ほど(約3万人)と民兵しかいなかったが、この民兵はベトナム戦争において米軍に勝ちベトナムを統一した主力であったために、彼らは実戦経験が豊富であり、さらにベトナム戦争時の大量のソ連製や中国製の長距離砲を含む各種の武器、弾薬も残っていた。そればかりでなく、旧南ベトナム政府軍から接収したアメリカ製兵器(M101 105mm榴弾砲、M114 155mm榴弾砲、M113装甲兵員輸送車、M41軽戦車、M48中戦車、UH-1 イロコイ汎用ヘリ、F-5 フリーダムファイター軽戦闘機、A-37 ドラゴンフライ軽攻撃機、A-1 スカイレイダー攻撃機など)の大半も使用可能であり、まさに精鋭の民兵だった。

中国軍は国産の62式軽戦車を主力にベトナム北部に侵攻したが、ベトナム軍の対戦車兵器により大半が撃破され、またベトナム国境付近は地雷原になっていたために歩兵を進めるのは困難だった。そのため中国軍は軽戦車から69式戦車と59式戦車といった MBTや中戦車を投入し、山越えをしてベトナムの側面に回りこむ策に出、さらにゲリラ戦に遭うのを防ぐため徹底的に山やジャングルを70式130mm30連装自走ロケット砲や火炎放射器で攻撃した。

初期の戦闘で中国軍の損害を大きくした原因の一つにベトナム軍の長距離砲(中国製)があり、加えてベトナム軍の砲兵陣地は強固であり、それを潰さない限りベトナム軍の防衛線を突破できない事が明白であったため、中国軍は対砲兵レーダーを使用した。対するベトナム軍は、大量の敵歩兵に背後に回り込まれることを防ぐため、複数の陣地を構築し、敵に損害を与えつつ陣地戦を行い後退した。中国軍はその後、ベトナムの防衛線を突破し、順当に2月26日にラオカイを、3月5日にはベトナム北部の要所ランソンを占領することに成功し、ベトナム北部の五つの省を完全に制圧したが大損害を出した。ベトナム軍主力は包囲されることなくランソンから後退した。その日の夜、中国中央軍事委員会は翌日の3月6日からの撤退を命じ、3月16日にはベトナム領から撤退した。

当時の装備の面ではベトナム軍は、ソ連からの全面的な支援を受け陸上戦力・航空戦力ともに高い水準を維持していた。中国では中ソ対立以前のソ連製の兵器をもとに装備の開発をおこなってきた、例えば、当時中国軍の最新型戦闘機は 殲撃七型であったが、ベトナム軍では MiG-21 の完成型である MiG-21bis が運用されていた。中国軍の主力機は殲撃七型、レーダーを積んだ殲撃六型、レーダーを搭載せず武装搭載量も貧弱な殲撃五型で、爆撃機は轟炸五型や轟炸六型を保有していた。地上軍でも、中国軍は旧式の車輌が多かったとは言ってもベトナム陸軍も戦車はT-55が主力であり、T-34/85さえも使用していた。

中国の損害が多かった理由のひとつとして、当時の人民解放軍が階級を廃止していた事も挙げられる。指揮官が戦死、あるいは戦傷で指揮が不能になった時に、代わって指揮をとる者の序列が存在せず、指揮系統が崩壊する例が多かったと言われる。

この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍の昆明軍区の報告書である「対越自衛反撃戦総結」では2月17日から2月27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張し、自軍の戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告している。一方ベトナム国防省の軍事歴史院が編集した「ベトナム人民軍50年 (1944-1994)」では60万人の中国軍の内2万人が戦死し、4万人が負傷し、合わせて1割の死傷者が出たと記している。ただし、最近のベトナムの新聞(新共和国報)記事に載せられた元将校(阮少雄)のコラムでベトナム側がソビエトの軍事顧問の不適切な助言なども相まって相当な損害を出していたと記したものが出てきている。筆者が指揮した連隊(中国では団と言う)では1,450人中生存者はわずか72人で、筆者自身も左目を失ったと記している。[1]

ベトナムはヘン・サムリン体制を保護するため、その後もカンボジア駐留を続け、1980年6月には隣国ラオスとタイの国境紛争に介入してタイに侵攻するなど、影響力強化のための軍事介入を続けた。改革開放路線であるドイモイ体制が始まって、1989年9月にようやく撤収した。

戦争後
中越関係はその後も改善せず、1979年から1989年まで何度も国境で武力衝突を起こした。

冷戦終結後両国関係はおおむね安定しているが、ベトナムでは自国への侵略戦争として、中国では一般的に中越戦争を裏切り者(ベトナムは中国の支援のもとで対南ベトナム・アメリカの戦争を戦った)への侵攻と認識され、また旧南ベトナムの経済を支配していた華僑への迫害や、ベトナム難民(ボート・ピープル)が20年以来に渡って香港の深刻な社会問題となっていたため、中華圏でのベトナムのイメージは、中越戦争以降悪いままである。なお、懸案であった国境線は2000年代に入って画定した。

ベトナムは戦後、中国に対し中越戦争は侵略戦争として再三謝罪を要請しているが、中国側は、「ベトナムのカンボジアへの軍事的侵略によるものだ」とベトナム側への謝罪を拒否している。

2004年には、ファン・ヴァン・カイ首相と温家宝首相が相互訪問。両国の緊密化は進んだ。2006年8月22日~26日、ノン・ドク・マイン書記長が訪中、胡錦涛総書記と首脳会談。共同プレス発表では、資源エネルギー分野を中心とした協力推進を表明し、「良き隣人、良き友、良き同志、良きパートナー」と中越の関係強化を強調。両国海域を跨ぐ北部湾(トンキン湾)の石油天然ガス田の探査及び開発などの協力を加速させるとした。その後も同年10月末にグエン・タン・ズン首相が南寧での中国・ASEAN首脳会議の際に温家宝首相と会談。11月16日にはAPECのため訪越した胡錦涛主席がノン・ドク・マイン書記長らと会談するなど、活発に首脳交流が行われている。 現代の中越関係は、ベトナム戦争期における社会主義兄弟国としての友情、カンボジア問題をめぐる憎悪と対立を経て、いまやビジネスライクに共通利益を目指す共存関係に変わりつつあるが、南沙諸島の領有権を巡って領土問題は残されており、近年も双方の武装船が相手方漁船を銃撃する事件がたびたび起こっている。

プレシン スタン ガッツ ジャー ひのえま トーイ プールバ ジメチル ウイット ブチュ ディス ハピパラ ていてつ コチニー ハトムギ トライク 紅葉雪 スカラ はちのへ ストラ 熱帯雨林 ストーン テンス もみじが NETリブ 恋待月 サーチ 桜坂 チシェリー トートナビ フェノール ツルコ のへじ トレラ ルーセン つるみ デジカルビ ディパー オーナラ すぎごけ デルフ マニフェ デリン ようとう スエヒ レソト スイング リベート ハッピー ミリグラム

2009年03月30日

鉢(はち)

鉢(はち)とは、皿より深く、壺よりは浅く、口の開いた容器のことである。陶磁器製、金属製、ガラス製、石製、木製、プラスチック製のものがある。食物や水などの液体を入れるが、植物などを育成するための容器にするものもある。形は円形が多いが、四角形、八角形などの多角形、花形や雲形などさまざま。

鉢の語源は梵語にまで遡る。元は僧侶が托鉢の際にもつ容器を指す梵語Patra(パートラ)の音訳である鉢多羅(はったら=応量器)で、略して鉢になったと言われる。 鉢のような容器は、縄文式土器や弥生式土器にも見られる。神前の供器としても利用されてきた。
アールグ モントリ 健やか バリン 九重 スクレイピ ゲゼルシ マスター スキップ プール パッセ ジュエリー 螢火 スマイリー スイカズラ うごう ジャズマ クロッカス ほうてき あまつき ナチュラル シリコン シフト トート フコイ クリアム いたやなぎ テタニー シリンジ ゼロベ チェック ワット ハリス ザッテル レート ブッダガ プラザ ちょう ハーモ せみね チャット オカルテ タンパー ヒューストン ナルシ ドリアン トップ ストーリ イズド ジェンヌ

種類 [編集]
形状や用途によって分けられる。

形状による分類
平鉢
深鉢
小鉢
用途による分類
植木鉢
火鉢
菓子鉢
金魚鉢
すり鉢
どんぶり鉢
など

派生用法 [編集]
形状が似ているため頭蓋骨のことを鉢ともいう。日本の兜における頭頂部を覆う部分のことも同様にそう呼ばれる。また、処女の女陰の異名を鉢または新鉢(あらばち)と言うことがある。(新鉢は処女そのものを指すこともある)

2009年03月15日

ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群

ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群(ウラジーミルとスーズダリのはくあのけんぞうぶつぐん)は、ロシア・ヴラジーミル州の古都ウラジーミルおよびスーズダリを中心に点在する聖堂・修道院・城塞など八つの記念碑的建造物群で、大理石で造られ精巧な浮彫が施された白亜の外壁を特徴としている。1992年にユネスコの世界遺産に登録された。

モスクワの北東の一帯(ザリエーシェ地方、Zalesye)はオカ川流域の低地で深い森林が広がっており、古代ルーシの中心であるドニエプル川流域のキエフ大公国および北方のノヴゴロド公国からは隔たった辺境であった。しかしこの地方は河川を通じてヴォルガ川・ドニエプル川・ネヴァ川水系とつながっており東西南北との交易がしやすく、土地も肥沃で、深い森林によりテュルク系の遊牧民族の襲撃から守られていたため、ドニエプル川流域からの住民の移住が相次いだ。

12世紀にはロストフやスーズダリを中心にウラジーミル・スーズダリ大公国が確立した。ザリエーシェ地方は中世のルーシの政治および宗教の中心地となり、ロシアという国家の形成に大きな役割を果たしている。13世紀半ばのモンゴルのルーシ侵入によりウラジーミルもスーズダリも破壊され、以後ルーシの主導権はモスクワやトヴェリなどの諸公国に、あるいはリトアニア大公国などに移ったが、モンゴル侵入以前の建築の一部は現在まで各地に残っている。「ウラジーミルとスーズダリの白亜の建造物群」は、ウラジーミル・スーズダリ大公国の全盛期である12世紀から13世紀にかけての宗教建築・要塞建築で、ルーシにおけるビザンティン建築、中世ロシア建築の好例になっている。

ウラジーミル
ウラジーミルの生神女就寝大聖堂 (1158年-1160年建築、1185年-1189年に拡張)
ゴールデン・ゲート(黄金の門) (1158年-1164年に築かれた城門、後年に補修されている)
ドミトリエフスキー聖堂 (1194年-1197年)
ボゴリュボヴォ
アンドレイ・ボゴリュブスキーの居城 (1158年-1165年、後年に補修)
ネルリの生神女庇護聖堂 (1165年)
スーズダリ
スーズダリのクレムリンと生神女誕生大聖堂 (1222年-1225年、16世紀に改修)
スパソ・エフフィミエフ修道院 (主に16世紀)
キデクシャ
聖ボリスとグレブ聖堂(1152年、後年に改修)

その他関連する建築 [編集]
世界遺産に登録はされていないが、ザリエーシェ地方には他にも同じ時期の白亜の聖堂建築が多数ある(黄金の環も参照)。
ぺぱーみ メンメン ソング バンブ チミン シーザー キックサニ カエデ キンロバイ ナンバー マリンバ ディー ハードコア トース ジョーク タンブラ ナイアガ ラック セリン ブラック セルラ オルガ マスト ピタヤ ビンテー センシ ワサビ えんおう キセル ニューマ ふきのとう ブルーマ シェイ プランター 暮し百科 ザック エンド マート ニューロン ダーシズン 雪しぐれ ガボン ぴってろ ミケー デソ プデ レーナー レット ピーコック トレーサ

ウラジーミルのクニャーギニン女子修道院の聖堂群、およびスーズダリのポクロフスキー修道院の聖堂群 (15世紀・16世紀頃)
ペレスラヴリ・ザレスキーの救世主顕栄大聖堂 (1152年)
ユーリエフ・ポリスキーのゲオルギエフスキー聖堂 (1230年-1234年、後年に改修)

2009年02月26日

藤子不二雄Ⓐの作品『まんが道』

本人によれば、おとなしくて体が弱かった藤本は小学校時代いじめに遭い、番長格の少年に似顔絵を評価されるまでずっと抜け出せなかったそうである。その時の気持ちがドラえもん、のび太に活かされている。また、藤子不二雄Ⓐの作品『まんが道』にも、その時の描写がある。

ベレー帽とパイプがトレードマークであり、作中に登場する本人のイラストにも描かれている。

野球好きで、近鉄バファローズファンであった(『小学四年生』1971年1月号で読者の質問に回答)。また鉄道ファンでもあり、鉄道模型が趣味の一つ。1983年にはテレビ番組『ドラえもんヨーロッパ鉄道の旅』にキャラクターと共演している。また鉄道、鉄道模型、SL等を題材にした作品も多数存在する事からも情熱の程が伺える(SF短編『四畳半SL旅行』、『ドラえもん』「SLえんとつ」「のび太の模型鉄道」「天の川鉄道乗車券」、『ポコニャン』「ダイナミックもけい鉄道」など)。

恐竜についての造詣の深さでも知られ、仕事机には始祖鳥の化石のレプリカやティラノサウルスのプラモデル、果てには本物のディプロドクスの尾の骨までが飾られていたという(作品としてはドラえもん大長編第1作『のび太の恐竜』、第8作『のび太と竜の騎士』や本編の各所、SF短編と『T・Pぼん』などでも恐竜が絡んだエピソードは数多い)。

西部劇やガンマンに関した話も少なくない。のび太には射撃の才能があるエピソードが多く描かれており、またドラミとタッグを組んだ後期の話(単行本24巻「ガンファイターのび太」)や『T・Pぼん』やSF短編集(『休日のガンマン』)などで本格的なスタイルのガンマンたちを描いている(まんが道にも道雄と西部劇マンガを描いているシーンがある)。

兵器や軍事に関するものも多くある(『まんが道』では戦艦の三面図を描いていたり飛行機の模型がある場面)。作品としてはドラえもんでのスネ夫の戦艦「大和」乗っ取りから潜水艦攻撃までのシーン、大長編『のび太の宇宙小戦争』など。兵器に関しては子供が憧れるカッコいいものと描いている描写(スネ夫のセリフなど)があるが、戦争自体への考えは世代に関係なく一貫して虚しい物や恐るべきものとして描いている(『のび太の海底鬼岩城』でのポセイドンに関する描写、スネ吉の「戦争とは金ばかりかかって むなしいものだなあ」というセリフ、『のび太の創世日記』における宗教戦争の否定、SF短編では『マイシェルター』や『ある日…』など)。また、ドラえもん初期には戦争関連のエピソードがいくつか見受けられる(疎開先での児童生活の辛さを描いた「白ゆりのような女の子」の話など)。

『スター・ウォーズ』に関するネタも漫画中に時折見受けられる(パロディとして描いたアカンベーダーなどの話のほかにも、リザーブマシンで取った映画の席が『スター・ウォーズ』であるなど。SF短編では『ある日…』と『裏町裏通り名画館』に『スター・ウォーズ』のパロディ劇中劇がある)。

初の専属アシスタントとして『まいっちんぐマチコ先生』で知られるえびはら武司がいる。むぎわらしんたろう(萩原伸一)もアシスタントとして晩年の藤本を支え、一緒に劇を見たり途中で蕎麦を食べるなどとかなり親密な関係だった。またむぎわらが描いた漫画に細かい部分まで指導を行ったり、『ドラえもん』単行本の表紙を任せるなど、後進としても目をかけていた。

いくつかの作品に登場するキャラクター小池さんと同様に、好きな食べ物は「インスタントラーメン(特にチキンラーメン)」であると語っていた。お湯をかけるだけで食べられる、という点が「魔法のよう」であると言い、旧スタジオ・ゼロの屋上でインスタントラーメンを食べているグラフが撮影されたこともある。

アニメ版の制作は畑違いということもあり、細かいチェックや要望などは行わなかったとされている。ただしずかについてだけは特別なこだわりがあったらしく、絵や性格などに注文を出す時があったという。また、最初の映画『のび太の恐竜』に客が入るのか不安で、公開前日に映画館の向かいのホテルに宿を取った。封切り同時に多くの子供が駆け付け満員になったのを見て安心したという(大山のぶ代著「ぼく、ドラえもんでした。」より)。

藤子不二雄Ⓐ同様、手塚治虫を子供の頃から生涯を通じての最大の師と尊敬し続けた。作風の面においてはハッピーエンドが多い藤子の作品と、重いテーマをシリアスに描くことの多い手塚の作品は対照的な部分もあるが、藤子は漫画の描き方の本や自伝などで頻繁に手塚作品への特別な思いを述べており、「いつか手塚先生のような壮大な作風にも挑戦してみたい気持ちもある」とも語っていた。

三人の娘がおり、一人はテレビ東京に勤務している。娘によれば藤本は、平均睡眠時間4時間という忙しさの中でも、家族と一緒の時間をできるだけ取るように心がけた人だったという。

晩年、小学館の児童向け学習雑誌や『コロコロコミック』などに作品が掲載される際には、「マンガの王様」というクレジットがあった。

エピソード
この節の内容に関する文献や情報源を探しています。ご存じの方はご提示ください。出典を明記するためにご協力をお願いします。

愛用していた鉛筆は三菱ユニのB、ペン先はゼブラのかぶらペン(『ぼく、ドラえもん。』6号)。
食の面では特に肉を好んだと言う。逆に、大根だけは苦手だった(『ぼく、ドラえもん。』6号)。
整理された画面構成を好み、不必要な線が入りすぎることを好まなかった。
自作で南極物語を暗に非難し(『裏町裏通り名画館』)、大長編ドラえもんでも環境保護を早期から唱えていたが(『のび太とアニマル惑星』)、ドラえもんが環境保護の錦旗と化すことを快く思っていなかった。
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訃報
1996年9月20日、家族が夕飯の準備を告げるといつものように仕事部屋から返事があった。だが呼んでからいつまで経っても来なかったので娘が仕事場へ呼びに行くと、机に向かったまま意識を失っているところを発見される。『ドラえもん のび太のねじ巻き都市冒険記』の62ページ目を自宅の仕事場で描いている最中で、発見された時鉛筆を握ったままだったという。そのまま病院に搬送され、3日後の9月23日午前2時10分にその生涯を閉じた。享年64、満62歳。死因は肝不全であった。

自身も以前から先が長くないことを自覚しており、『のび太のねじ巻き都市冒険記』の大筋を執筆前に芝山努に教えていたり、亡くなった後の自身の作品の行方や、藤子プロの活動などに対して心配を寄せている内容を書いた手紙を残していた。

藤子不二雄Ⓐは仮通夜にて、「気持ちは混乱していまして、正直言って今朝からずっと足ががたがた震えてて、すごく残念でしょうがないんです。彼はたいへんな天才だったと思うんですね、僕なんか彼がいたから漫画家になれたようなものでね。すごくピュアな気持ちの男だったですね」と語った。また、『愛…しりそめし頃に…』の連載中に亡くなったことを受け、追悼として読切作品『さらば友よ』を執筆した。

葬儀にはたくさんの人が参列し、出棺の時には「ありがと~弘さ~ん」と大勢の人に見守られながら天国へ旅立っていった。

大山のぶ代は葬儀の時、「本当のお葬式の日、ドラえもん、のび太くん、しずかちゃん、ジャイアン、スネ夫、ママ、パパみんなで先生を送りたいと思います」と涙をこぼしながら語った(このことについては大山のぶ代著『ぼく、ドラえもんでした。』に詳しい記述がある)。

なお、訃報に際して、長きにわたって映画ドラえもんシリーズの楽曲を制作していた武田鉄矢は、同シリーズから引退した。

作品
小学館の児童向け学習雑誌や『コロコロコミック』で児童向け漫画を描く一方、『ビッグコミック』などで大人向けのSF短篇漫画も多く描いた。

藤子・F・不二雄の提唱する「SF」とは「サイエンス・フィクション」ではなく、「すこし・不思議」という意味を示し、日常の中に非日常が飛び込んでくる内容の作品が多い。その一方でSF短編集に収録されている作品には、ハードなサイエンス・フィクションの流れを汲む作品も多く、バラエティに富む。

以下の作品は設定された世界がリンクしていることも多々あり、ある作品のキャラクターが越境して他作品に登場したり、後日談や前史が語られることもある。その詳細は作品別のリンク先で記す。児童漫画では架空の存在である主人公と相棒の少年、女の子1名、大きなガキ大将と子分という構成が多い。

てぶくろてっちゃん(1960年 - 1963年、1966年)
進めロボケット(1962年 - 1965年)
パーマン(1966年 - 1968年、1983年 - 1986年)
21エモン(1968年 - 1969年)
ウメ星デンカ(1968年 - 1970年)
モジャ公(1969年 - 1970年)
ドラえもん(1970年 - 1995年)、(大長編ドラえもん1980年 - 1996年)
ポコニャン(1970年 - 1974年、1975年 - 1978年)
ドビンソン漂流記(1971年 - 1972年)
新オバケのQ太郎(1971年 - 1974年)
ジャングル黒べえ(1973年)
キテレツ大百科(1974年 - 1977年)
ぞうくんとりすちゃん(絵本作品・1974年)
みきおとミキオ(1974年 - 1975年)
モッコロくん(1974年 - 1975年)
バケルくん (1974年 - 1976年、1984年)
4じげんぼうPポコ(1975年 - 1976年)
Uボー(1976年 - 1979年)
バウバウ大臣(1976年)
きゃぷてんボン(1976年)
エスパー魔美(1977年 - 1978年、1979年 - 1983年不定期連載)
中年スーパーマン左江内氏(1977年 - 1978年)
T・Pぼん(タイムパトロールぼん)(1978年 - 1979年、1980年 - 1983年、1984年 - 1986年)
ミラ・クル・1(1979年)
宙ポコ(1983年)
宙犬トッピ(1984年)
チンプイ(1985年 - 1991年)
未来の想い出(1991年)
など多数

2009年02月09日

奈良時代の前半は、刑部親王らが撰述し

奈良時代の前半は、刑部親王らが撰述し、701年(大宝元年)に完成・施行された大宝律令が、基本法であった。
きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

718年(養老2年)藤原不比等らに命じて、養老律令を新たに選定した。字句の修正などが主であり、根本は大宝律令を基本としていたが、その施行は遅れ、757年(天平宝字9年)、藤原仲麻呂主導の下においてであった。

律令制下の天皇権力
天皇系図第38-50代律令制下の天皇には、以下のような権力があった。

貴族や官人の官職及び官位を改廃する権限、令外官(りょうげのかん)の設置権、官人の叙位および任用権限、五衛府(ごえふ)や軍団兵士に対するすべての指揮命令権、罪刑法定主義を原則とする律の刑罰に対して勅断権と大赦権、外国の使者や外国へ派遣する使者に対する詔勅の使用などの外交権、皇位継承の決定権などである。

762年(天平宝字6年)頃、淡海三船は歴代天皇の漢風諡号を撰進した。これによって、天智天皇もしくは天武天皇の時代(7世紀)に創始されたと考えられる「天皇」号は、それ以前にさかのぼって追号された。

中央官制、税制と地方行政組織
大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。中央官制は、二官八省と弾正台と五衛府から構成されていた。地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。里はのちに郷とされた。さらに道制として、畿内と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分され、その内部は66国と壱岐嶋・対馬嶋の2嶋が配分された(令制国一覧参照)。軍団は各国に配置され、国司の管轄下におかれた。また田と民は国家のものとされる公地公民制を取り入れ、戸籍により班田が支給された。税は、租庸調と雑役から構成されていた。

742年(天平14年)大宰府を廃止し、翌年、筑紫に鎮西府を置いたが、745年(天平17年)には太宰府が復された。

東北地方では多賀城、出羽柵等が設置され、蝦夷征討と開発、入植が進められた(既述)。

農地拡大政策と律令国家
律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。いっぽう、日本の律令に規定された班田収受の法には、開墾田のあつかいについての明確な規定がなかった[4]。そのため、長屋王を中心とする朝廷は722年(養老6年)に良田百万町歩開墾計画を立て、計画遂行を期して723年(養老7年)には田地開墾を促進する三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行した。この法では、新しく灌漑施設をつくって開墾した者は三代のあいだ、もとからある池溝を利用した者は本人一代にかぎり、墾田の保有を認めた。

しかし、農民の墾田意欲は必ずしも向上せず、墾田も思いのほか進まなかったため、743年(天平15年)、橘諸兄政権はさらなる墾田促進を目的とした墾田永年私財法を施行した。これは、国司に申請して開墾の許可を得て、一定期間内に開墾すれば、一定限度内で田地の永久私有をみとめるものであった。

両法令は公地公民制の基盤を覆す性格をもったことは確かだが、動機としては班田(口分田)を確保することによって律令体制の立て直しを図ったものであったことも事実である。開墾をおこなう資力にめぐまれた貴族や豪族、寺社の土地所有は以後増加の一途をたどった。とくに大貴族や大寺院は、広大な土地を囲い込み、一般の農民や浮浪人を使役して私有地をひろげた。これが荘園の起こりであるが、租税義務のともなう輸租田を主とするものであり、初期荘園(墾田地系荘園)と呼ばれる。

平城京の造営と和同開珎
元明天皇即位の翌年にあたる708年(慶雲5年)正月、武蔵国が自然銅を献上したのを機に「和銅」と改元され、翌2月には、貨幣の鋳造と都城の建設が開始された。2月11日、鋳銭をつかさどる催鋳銭司がおかれ、2月15日、平城遷都の詔が出された。

平城遷都と橘賜姓
「平城遷都の詔」によれば、新都は「方今、平城之地、四禽叶図…」とあり、「四神相応の地」が選ばれた。藤原京は、南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、藤原宮のある地点が群臣の居住する地より低く、臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、また現実問題として排水が悪いなどの難点ともなった。しかしそれだけではなく、藤原京は唐との交流が途絶えた時期に造られたため、古い書物(『周礼』)に基づいた設計を行ったと考えられ、当時の中国の都城と比しても類例のないものとなっていた。実際には、30数年ぶりに帰国した遣唐使の粟田真人が朝政にくわわってこれらの問題が明るみになり、また唐の文化や国力、首都長安の偉容や繁栄などを報告したことが、藤原京と長安との差がかけ離れていることを自覚することとなって、遷都を決めた要因となったと考えられる[20]。その根底には、壮麗な都を建設することが、外国使節や蝦夷・隼人などの辺境民、そして地方豪族や民衆に対して天皇の徳を示すことに他ならず、国内的には中央集権的な支配を確立するとともに、東夷の小「中華帝国」を目指したものに他ならなかった[21]。9月、元明天皇はみずから平城の地を視察し、造平城京司の長官ら17名を任命、10月には伊勢神宮に勅使を派遣して新都造営を告げ、11月、平城宮予定地のため移転させられる民家に穀物、布を支給、12月には地鎮祭を行い、造営工事を開始した。

この年(和銅元年)、遷都を主導した藤原不比等は正二位、右大臣に進み、不比等の後妻、県犬養三千代は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。地名や職掌にかかわる名が一般的ななかで植物の名を氏名とするのは稀有なことであり、彼女の生んだ皇子たちは橘を名のって、橘氏の実質上の祖となった。なお、これにより橘諸兄と改名した葛城王と、のちに皇后となる光明子(光明皇后)とは、三千代を母とする異父同母の兄妹にあたる。

平城京の造営工事はきわめて短期間のうちに遂行された。工事着工後の1年4か月後の和銅3年(710年)3月には平城遷都が決行されたが、このように急ピッチでの遷都が可能であったのは、寺院も含めて建物の多くが藤原京からの移築だったことによる。近年の知見では新都平城京の規模は旧都藤原京とほぼ変わらず、むしろ藤原京のほうが広いぐらい[22]であり、長安城に比較すれば4分の1程度にすぎなかった。平城京の特色としては「外京」という右京からの張り出し部分を設けたことで、完全な矩形ではないことである。「外京」はむしろ今日の奈良市の中心街となっている。平城京に所在する建物は、唐風建築のみならず、掘立柱で板敷の高床建築で屋根は檜皮葺という前代よりの伝統的な日本風建築も多かった。

和同開珎と蓄銭叙位令
和同開珎銀銭都城の造営は短期間にすすめられたが、貨幣の鋳造のスピードもはやかった。708年2月に催鋳銭司がおかれ、同年5月にははやくも和同開珎の銀銭、同じく8月には銅銭が発行されている。銀銭の発行が早かったのは、秤量貨幣としての銀の通用の伝統があったためとみられる[4]。

平城京が持統天皇期の藤原京の発展形であったのと同様、和同開珎もまた富本銭の発展形であり、また唐の銭貨にならったものであった。銭貨は新都の造営にやとわれた人びとへの支給銭など宮都造営費用の支払いに利用され、政府はさらにその流通をめざして和銅4年(711年)10月に一定量の銭を蓄えた者に位階を与えるとする蓄銭叙位令を発したものの、京・畿内を中心とした地域の外では、稲や布などを物品貨幣とする交易が広くおこなわれていた。蓄銭叙位令は一種の売官制であり、かえって貨幣の死蔵がすすみ、円滑な貨幣交換がさまたげられることがあった。政府は、こののちも銅銭の鋳造をつづけ、10世紀の乾元大宝まで12回にわたり国家的に銭貨の鋳造はおこなわれた。これを、皇朝十二銭という。

一方で、私鋳銭禁止令が和同開珎鋳造と同じ和銅元年(708年)に出されている。役人が位階獲得を目的に私鋳銭を製造しないよう、私鋳銭製造に対しては官位剥奪、「斬」(首を切る極刑)の罰が加えられた。

政争と皇権の動揺
長屋王の変と光明子立后
この時代の初め、鎌足の息子藤原不比等があらわれて政権をにぎり、律令制度の確立に力を尽くすとともに、皇室に接近して藤原氏発展の基礎をかためた。不比等死後に政権を担当したのは、高市皇子の子で天武天皇の孫にあたる長屋王であった。彼は右大臣に昇って権勢を誇ったが、その前後から負担に苦しむ農民の浮浪や逃亡がふえ、社会不安が表面化したため、政府は財源確保のため723年(養老7年)には、三世一身法を施行して開墾を奨励した。不比等の娘藤原宮子を母とする聖武天皇が724年(神亀元年)ころから、不比等の子武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤原四兄弟が政界に進出した。729年(神亀6年)、左大臣にのぼった長屋王に対し藤原四兄弟は「左道によって国政を傾ける」と讒訴して、自殺に追いこみ(長屋王の変)、政権を手にした。変の直後、藤原氏は不比等の娘光明子を、臣下で最初の皇后(光明皇后)に立てることに成功した。

橘諸兄政権と聖武天皇
その藤原四兄弟が737年(天平9年)に天然痘の流行で相次いで死亡すると、皇族出身の橘諸兄が下道真備(のちの吉備真備)や僧玄昉を参画させて政権を担った。これを不満とした宇合の長男藤原広嗣は、740年(天平12年)、真備らを除くことを名目に、九州で挙兵したが、敗死した(藤原広嗣の乱)。この反乱による中央の動揺ははなはだしく、聖武天皇は、山背の恭仁、摂津の難波、近江の紫香楽と転々と都をうつした。相次ぐ遷都による造営工事もあって人心はさらに動揺し、そのうえ疫病や天災もつづいたので社会不安はいっそう高まった。かねてより厚く仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家の思想により、社会の動揺をしずめようと考え、741年(天平13年)に国分寺建立の詔、743年(天平15年)には盧舎那大仏造立の詔を発した。これにより東大寺大仏がつくられ、752年(天平勝宝4年)に完成、女帝孝謙天皇・聖武太上天皇臨席のもと、盛大な開眼供養がおこなわれた。

2009年01月24日

サティー (ヒンドゥー教)

リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

サティー(Sati, सती)は、ヒンドゥー社会における慣行で、寡婦が夫の亡骸とともに焼身自殺をすることである。本来は「貞淑な女性」を意味する言葉であった。

この慣行についてヒンドゥーの法典に根拠となる記述はなく、いつ頃始まりどのように広がっていったのかはっきりとは分かっていない[1]。史書なきインドと言われているように、ヒンドゥーやバラモン教徒による古代インドの記録は存在しておらず、サティーについての記録はヨーロッパ人やアラブ人の記録に見受けられる。古くは紀元前4世紀のギリシア人は西北インドで寡婦焚死の風習があった記録を残しており[2]、9世紀の『中国とインドの諸情報 第一の書』[3]や、14世紀のイブン・バットゥータ『大旅行記』[4]といったアラブ人による書物にも記載がある。

17世紀のムガル帝国で支配者層であったムスリムはサティーを野蛮な風習として反対していたが、被支配者層の絶対多数であるヒンドゥー教徒に配慮し、完全に禁じていたわけではなかった。その代わり、サティーを自ら望む女性は太守に許可を申し出るよう義務付け、ムスリムの女性たちを使って可能な限り説得を行い、それでもなお希望する者にのみ許可を与えた。必ずしも寡婦の全てがサティーを望んだわけではない。また、全ての土地にムスリムの太守がいるわけではなく、説得が行われていない地域もあった。中にはヨーロッパ人や家族の説得に応じて寸前で思いとどまった者もいたが、ほとんどの志願者は夫と共に焼け死ぬ貞淑な女性として自ら炎に包まれた。炎を前に怖気づいた者は周りを囲むバラモンに無理やり押し戻されるか、仮に逃げたとしてもそれを目的に見物に集まっていた異教徒たちに襲われその餌食となった。[5]

18世紀の初めにはサティーはほとんど行われなくなったが、イギリス植民地時代の18世紀末以降、ベンガル地方の都市部で再び盛んになる。理由は諸説あり、植民地時代の混乱の中で寡婦が夫の幽鬼を宿す不吉な存在として不安の矛先が向けられたという説や、ベンガル地方の法律が寡婦に相続権を認めており夫の親族によってサティーを強制されたという説もある[6]。イギリス東インド会社はサティの問題を早くから認識していたが、セポイの反乱を恐れ、具体的な対処は19世紀以降になる。1810年代に入り、16歳未満、妊娠中、幼子がいる場合、強制された場合を非合法とし官吏を立ち合わせたが、サティーの件数は増大し社会問題になった。

1818年、ブラフモ・サマージの創設者でヒンドゥー社会改革運動の先駆者ラーム・モーハン・ローイが『宗教儀礼としての寡婦の火葬に関する議論の妙録』という冊子を出版し、ヴェーダや法典にサティーの根拠が見られないとし、その廃絶を訴えた[7]。ローイらの努力により、1829年にベンガル総督ベンティンクによって、サティー禁止法が制定された。また、1830年にはマドラス、ボンベイにおいても禁止法が制定された。しかし、禁止法の制定以後、現在においてすら稀にではあるが慣行として行われ続けている。

叙事詩における例
貞淑の証として、火による自殺を図った女性は叙事詩に2人登場する。一人はラーマーヤナにおけるラーマの妻シーターであり、もう一人はマハーバーラタにおけるシヴァの妻サティーである。ランカーの王ラーヴァナによってシーターは誘拐され、戦いの末、ラーマはシーターを救出するが、ラーマはシーターの貞操を疑う。シーターは身の潔白を証明するため、聖火に飛び込む。結果、シーターは火傷を負わず、ヒンドゥーの火の神アグニが現れ潔白を証明する。これは同様の聖火による神明裁判が古代インドで行われていたことを示している。[8]ダクシャの娘サティーはシヴァと結婚するが、シヴァを快く思っていないダクシャは祭儀にシヴァを招かず、怒ったサティーは聖火に身を投じ死んでしまう。後にサティーはヒマラヤの娘パールヴァティーに転生し、再びシヴァの妻となる。サティーの慣行の起源を女神サティーに求めるものもいる。

サティーの儀式
サティーの儀式は。夫の葬儀の儀式の後に行われる。サティーの儀式の最後には、夫の葬儀で用いた石を供養しする「石の礼拝」(シラー・プージャナ)を行う。これらが終わった後で、寡婦は炎に包まれる。
ヒンドゥーの葬儀
ヒンドゥーでは死者は、薪の山 に乗せ、会葬者の前で火葬にふす。死は穢れであり、火が死者を天に昇らせる唯一の方法とされるからである。その人の生前の行いの結果(カルマ、業)により、転生後の新たな生がもたらされる。変死したもの、葬式を行わなかったものの霊は地上に止まり、悪霊(ブート)、亡霊(プレータ)として人に災いをもたらすと信じられている。灰は体の燃え残りとして川に流され、シンガポールやバリ島の一部地域を除いて墓は作られない。

寡婦と婚姻制度
男女の寿命の差もあるが、寡夫より寡婦が圧倒的に多くなるのにはヒンドゥーの婚姻制度に原因がある。幼児婚や持参金制度により、夫と年齢とはなれた婚姻が成立し、それが結果としてサティーに結びついている。

ヒンドゥー教徒同士の結婚は制約が多く、他のカーストや近親を避け、適当な夫を確保するため早々に娘を結婚させる慣習がある。女性はまだ幼いうちに嫁ぎ先の家に入り、生家ではなく嫁ぎ先のしきたりを覚え、男子を産んで初めて発言権を得られるようになる。結婚年齢についても、マヌ法典においては男性30歳の場合、女性は12歳が最もよい結婚年齢としているように、女性に絶対服従を求める男性にとって都合がいいよう、特に女性の早婚が伝統的である。この年齢差が寡婦を多く生み出す要因となっていた。19世紀半ばには10歳以下の女性との結婚は禁止され、その後も徐々に引き上げられ、1978年の幼児婚抑制法では男子21歳女子18歳に最低婚姻年齢が引き上げられた。違反したからといって婚姻が無効にされるわけではないが、1976年の婚姻法改正で、婚姻の成立に関わらず女子に幼児婚の否認権が与えられている。

また、ダヘーズ(もしくはダウリー dowry)と呼ばれる花嫁側に求められる多額の結婚持参金制度も問題であり、持参金の支払いができず年齢が著しく離れた男性との結婚を余儀なくされる場合もあるために、多くの女性が若くして寡婦となる一因ともなっている。ダウリの額は嫁側の社会的・経済的な地位や、婿の教育や職業によって異なる。娘を持つ父親にとっては多大な負担になり、女児の誕生が望まれない理由である。ヒンドゥーの結婚式は大概の場合派手であるが、その莫大な費用も全て花嫁側の負担となる。ガンディーも、ダヘーズを要求する者はその者自身の教育と国家を汚し、女性の名誉を傷つけるとし非難している。1961年にダヘーズを禁止する法律(Dowry Prohibition Act)が制定されたが、未だこの慣習は完全になくなっていない。

寡婦と家族制度
伝統的なヒンドゥーの合同家族制度の元では女性は結婚によって、夫の家族に属し、扶養される権利だけを持つ付属物でしかなかった。マヌ法典に、女子は決して独立に値ざりしとあるように、伝統的にヒンドゥー社会で女性の地位は低かった。近年、女性差別の撤廃、地位向上、社会進出へ向け法整備が進められている。

ヒンドゥーにおける理想的な女性とは、貞節を守り、献身的に夫に尽くす女性である。サティーが盛んになった19世紀ごろ、再婚は堕落とみなされ、寡婦は厳しい禁欲生活を余儀なくされていた。また、上位カーストでは寡婦は不吉な存在とされた。家族の中での差別に耐え切れず、誘惑に負け、不品行のみならず、犯罪や嬰児殺しを犯したりする者もいた。再婚法の制定は、ヒンドゥー社会改革運動の主題とされた。しかし、再婚による待遇の改善を寡婦たちには望んでおらず、また婚姻慣習にも事実上影響はなかった。再婚法の失敗以降、教育によって寡婦の自立を目指す運動が広がっていった。

文学作品における言及
植民地支配を通じて人と情報の行き来が盛んになると、この「慣習」の存在について本国人の間でも伝え及ぶこととなり、そのため欧米諸国の文学作品においても、主に「異国の奇妙な」「野蛮で非人道的な」風習として度々言及されてきた。有名な例としては、マーガレット・ミッチェルの『風と共に去りぬ』の中で、寡婦のスカーレットがキリスト教の形式的な教義から亡き夫に縛られていることをレット・バトラーが揶揄する言葉として登場する。(なお、これに対してスカーレットは、「セッティー(settee:「長椅子」)?」と尋ね返してバトラーの笑いを買っている。)

1872年に発表されたジュール・ヴェルヌの小説『八十日間世界一周』に、サティーの儀式から女性を救い出す場面がある。インドのブンデルカンド地方で、主人公のフォッグとパスパルトゥーの主従は王の葬儀に遭遇し、大麻で朦朧としている様子の女性を目にする。現地に駐在するイギリス人のサー・フランシスは主従の疑問に対し、いけにえであり、自発的なものであると答える。そして、サティーを行わなかった場合、寡婦が亡夫の親族からどのように扱われるか説明がされている。翌朝、サティーの儀式が行われる前に、この女性アウダは救い出され世界一周旅行に同行するようになる。

2009年01月10日

緋色の研究に於ける人物評

第1作『緋色の研究』で、ワトソンはホームズに以下の評価を下している。

文学の知識:なし。
哲学の知識:なし。
天文学の知識:なし。
政治学の知識:わずか。
植物学の知識:多様。ベラドンナや阿片、毒薬に特に詳しい。ガーデニングの知識はない。
地質学の知識:実用的なものだが限られている。一見で各所の土の違いをいうことができる。散歩の後ズボンについた土の撥ね返りを見せて、色とその粘度からロンドンの何処で付いたかを言ったことがある。
化学の知識:造詣深い。
解剖学の知識:正確であるが体系的ではない。
通俗文学の知識:限り知れない。今世紀に起こった凶悪事件のほとんどの詳細を知る。
バイオリンに長けている。
フェンシング、ボクシング、ステッキ術に長けている。
イギリス法への実用的な知識を持つ。
もっとも、『四つの署名』にはこれらを覆すような記述も多くある[2]。ワトソンは「後で騙されていたと気付いた」と述べている。ワトソンをからかったのか、あるいは『緋色の研究』以後に勉強しだしたのかについてはっきりと書かれてはいないが、すでに『緋色の研究』のラストでワトソンの判断を覆すような引用・発言をし、多方面にわたる見識と知識を見せている。

ホームズのモデルは、作者の医学部時代の恩師で外科医であるジョーゼフ・ベルとされている[注釈 7]。ベルは病気の診断には観察力が重要だと学生に説き、訪れる患者の外見から病名だけでなく、職業や住所、家族構成までを鋭い観察眼で言い当てて学生らを驚かせた。コナン・ドイルは学生時代にベルの助手を務め、その所業を日頃から目の当たりにしていた[注釈 8]。

一方でエイドリアン・コナン・ドイルは実際にいくつかの事件で冤罪を晴らしたことのある父アーサー・コナン・ドイルこそがホームズのモデルであると主張していた[3]。

経歴
以下はシャーロック・ホームズシリーズの記述から推測されるホームズの経歴である。これとは異なる経歴を支持するシャーロキアンも多いことを付け加えておく。

1872年、シャーロック、大学に進む。化学実験にのめり込み、余暇はバイオリン(ストラディバリウス)を演奏して過ごす。スポーツには、あまり興味を示さなかったものの、自己鍛錬のためにフェンシング、ボクシング、武術(バリツ)を習得。
1874年の夏、学友ヴィクター・トレヴァーの父親の勧めで私立探偵を志す(『グロリア・スコット号事件』)。大学生活でシャーロックの推理方法(アブダクション)は洗練され、大学内でも知れた存在になる。
1877年、23歳のシャーロックはモンタギュー街の大英博物館付近に部屋を借り、私立探偵を開業。しかし捜査依頼は皆無だったため、暇な時間を将来役立ちそうな研究に費やす。
学友からの依頼が数件あり、全て解決する(『マスグレーヴ家の儀式』)。聖バーソロミュー病院解剖学教室入学。独自に血痕判定の新薬を開発(『緋色の研究』)。他にもユニークな研究論文を多数発表。
1881年、27歳の頃、ベーカー街221Bに転居。医師ジョン・H・ワトスンとの同居生活を始める。仕事の依頼も増え始める。『緋色の研究』事件を解決。脳の活性化を図り、モルヒネ及びコカインの吸引も積極的に行う。
1887年、『緋色の研究』の事件調査報告がビートンのクリスマス年鑑に発表され、広く世の人々がシャーロック・ホームズという探偵の存在を知る。
1888年、ボヘミア国王の依頼でアイドリー・アイリーンから写真を奪い返そうとして失敗(『ボヘミアの醜聞』)。この頃、ワトソンが『四つの署名』に登場したメアリー・モースタン嬢と結婚し、診療所を持ち、ベーカー街221Bを去る。
シャーロックは、ビリーという少年を雇い、身の回りの雑事をさせる(『恐怖の谷』)。
1891年、シャーロックはジェームズ・モリアーティ教授の犯罪組織を粉砕。モリアーティ教授に襲われるもバリツを使い滝壷に叩き落とす。そのまま身を隠したため、世間では死亡説が流れる(『最後の事件』)。
この後、2年間チベットを旅して周り、ラマ僧に謁見。シーゲルソンという偽名を使い探検記を発表。メッカを経てフランスに戻り、コールタール誘導体の研究に数ヶ月を費やす。
1894年、ベーカー街に帰還、探偵活動を再開(『空き家の冒険』)。妻メアリーに不幸があった(と考えられている)ワトソンもベーカー街へ戻る。その際、診療所をヴァーナーという医者に高値で売却。後にヴァーナー(フランス読みでヴェルネ)とは、シャーロックの親類の名で、料金を支払ったのはシャーロック本人であることが分かる(『ノーウッドの建築業者』)。
1895年、ワトソンによればホームズが最も精力的だった年。『ブルースパーティントン設計図』事件の解決によって、ビクトリア女王に謁見する。
1899年、シャーロックはエスコットという偽名を使い、ミルバートン家の女中と婚約(『犯人は二人』)。
1900年、サーの称号を辞退。
1902年、ワトソンが再びベーカー街を去る。シャーロックはシンウェル・ジョンソンという情報屋を使うようになる(『高名な依頼人』)。
1903年、49歳で探偵業を引退。風光明媚なサセックスの丘で隠遁生活に入る。
1909年、サセックス近辺で起きた教師変死事件を調査(『ライオンのたてがみ』)。
1912年、英国政府からの調査依頼で探偵業を再開。アルタモントという偽名を使いアメリカに渡り、ドイツ諜報機関に侵入。ドイツ人に偽情報をリーク(『最後の挨拶』)。
1914年、60歳でドイツ諜報機関の英国内におけるネットワークを壊滅させ、サセックスの丘へ帰る。
1926年、ワトソンの文章を批判し過ぎて怒られてしまったため、『白面の兵士』と『ライオンのたてがみ』の2編を自ら執筆、発表

ミネア あさひか ストレ マッチ アック 繊細 せいじゅ パワーサプ ランドロ ステイ ヒート メキシコ エグゼ べにあか センリョウ アーバン オーバ ロッキード やっこだこ パターン カピバラ アフガン サーボモ メリー 望郷の月 じゅご リンガ モルデ パトス キャンサド ティン デジタル ネクスト ノーショー コンファー ビオチ クレーション フィーマ カーラジオ バビア ナビノニ やまんば デーゲーム 世界の家 ブービー ドゥク サイダ ジャージー ベンダー フレーター