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中越戦争

中越戦争(ちゅうえつせんそう、Sino-Vietnamese War)または第三次インドシナ戦争は、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国 の間で1979年に行われた戦争。中国が支援していたポル・ポトのクメール・ルージュ政権は、カンボジアで大量虐殺を行っていたが、ベトナムによるカンボジアへの大規模な侵入と占領 (Cambodian-Vietnamese War) はこれを終わらせた。この占領に対抗し、中国はベトナムへの侵攻を開始した。中国軍はベトナムへの1月ほどの侵攻の後、撤退した。

ベトナム戦争(1965年~1975年)終結直前、ベトナムの隣国カンボジアでは1975年4月にロン・ノルの親米軍事政権が倒れ、1976年1月にポル・ポト率いるクメール・ルージュが政権を奪取し、民主カンプチアの成立を宣言した。しかし間も無く大量虐殺を伴う恐怖政治を行うようになった。また、ほぼ同時に成立した統一ベトナムとの間では対立が激化し、1978年1月に国境紛争によって国交を断絶した。ベトナムはカンボジアから亡命していたクメール・ルージュの軍司令官ヘン・サムリンたちを支援するという形でカンボジアに侵攻し、1979年1月にプノンペンを攻略、ヘン・サムリンによる親ベトナムのカンボジア政権を樹立した。ポル・ポトは密林地帯に逃亡しポル・ポト政権は崩壊した。

この背景には当時の中ソ対立も絡んでおり、ベトナムにはソ連が、ポル・ポト政権には中国がそれぞれ後ろ盾となっていた。ベトナムとカンボジアが親ソ連となったことに対応し、当時、ソ連への敵意が強かった中国の鄧小平と華国鋒は開戦を決断した。中国にしてみれば、ベトナム戦争で中国の支援を受けたベトナム政府が親ソ連となり、中国から援助された武器も使って、中国の友好国であるカンボジアのポル・ポト政権を崩壊させたことは、恩を忘れた裏切り行為と映った。また、主に旧南ベトナム地域の華僑に対する国外追放、収容所送りなどの弾圧策にも、その華僑が中国の共産主義と相容れる存在ではなかったとしても強い反発があった。一方、当時のベトナム政府にとっては、カンボジアとの未確定の国境問題、ポル・ポト政権が、カンボジアのベトナム系住民への迫害を含む恐怖政治を行い、ベトナムに大量のカンボジア難民が流れ込む可能性(実際には大多数はタイへ逃げ込んだ)は看過できないことであった。

戦況の推移
中国は56万の軍をベトナム国境に集結させ威圧した。1979年2月17日、中国は「懲罰行為」と称して、雲南と広西からまず10万の陸上軍によりベトナム北部に侵攻した。中国ではこの戦争と80年代の国境紛争と併せて「對越自衛反撃戦」と呼び、ソ連・ベトナム連合の侵攻を恐れての行動でもあった。この時期、ベトナム軍主力はカンボジアにあり、北部には正規軍3個師団ほど(約3万人)と民兵しかいなかったが、この民兵はベトナム戦争において米軍に勝ちベトナムを統一した主力であったために、彼らは実戦経験が豊富であり、さらにベトナム戦争時の大量のソ連製や中国製の長距離砲を含む各種の武器、弾薬も残っていた。そればかりでなく、旧南ベトナム政府軍から接収したアメリカ製兵器(M101 105mm榴弾砲、M114 155mm榴弾砲、M113装甲兵員輸送車、M41軽戦車、M48中戦車、UH-1 イロコイ汎用ヘリ、F-5 フリーダムファイター軽戦闘機、A-37 ドラゴンフライ軽攻撃機、A-1 スカイレイダー攻撃機など)の大半も使用可能であり、まさに精鋭の民兵だった。

中国軍は国産の62式軽戦車を主力にベトナム北部に侵攻したが、ベトナム軍の対戦車兵器により大半が撃破され、またベトナム国境付近は地雷原になっていたために歩兵を進めるのは困難だった。そのため中国軍は軽戦車から69式戦車と59式戦車といった MBTや中戦車を投入し、山越えをしてベトナムの側面に回りこむ策に出、さらにゲリラ戦に遭うのを防ぐため徹底的に山やジャングルを70式130mm30連装自走ロケット砲や火炎放射器で攻撃した。

初期の戦闘で中国軍の損害を大きくした原因の一つにベトナム軍の長距離砲(中国製)があり、加えてベトナム軍の砲兵陣地は強固であり、それを潰さない限りベトナム軍の防衛線を突破できない事が明白であったため、中国軍は対砲兵レーダーを使用した。対するベトナム軍は、大量の敵歩兵に背後に回り込まれることを防ぐため、複数の陣地を構築し、敵に損害を与えつつ陣地戦を行い後退した。中国軍はその後、ベトナムの防衛線を突破し、順当に2月26日にラオカイを、3月5日にはベトナム北部の要所ランソンを占領することに成功し、ベトナム北部の五つの省を完全に制圧したが大損害を出した。ベトナム軍主力は包囲されることなくランソンから後退した。その日の夜、中国中央軍事委員会は翌日の3月6日からの撤退を命じ、3月16日にはベトナム領から撤退した。

当時の装備の面ではベトナム軍は、ソ連からの全面的な支援を受け陸上戦力・航空戦力ともに高い水準を維持していた。中国では中ソ対立以前のソ連製の兵器をもとに装備の開発をおこなってきた、例えば、当時中国軍の最新型戦闘機は 殲撃七型であったが、ベトナム軍では MiG-21 の完成型である MiG-21bis が運用されていた。中国軍の主力機は殲撃七型、レーダーを積んだ殲撃六型、レーダーを搭載せず武装搭載量も貧弱な殲撃五型で、爆撃機は轟炸五型や轟炸六型を保有していた。地上軍でも、中国軍は旧式の車輌が多かったとは言ってもベトナム陸軍も戦車はT-55が主力であり、T-34/85さえも使用していた。

中国の損害が多かった理由のひとつとして、当時の人民解放軍が階級を廃止していた事も挙げられる。指揮官が戦死、あるいは戦傷で指揮が不能になった時に、代わって指揮をとる者の序列が存在せず、指揮系統が崩壊する例が多かったと言われる。

この戦争の犠牲者に関しては、中国人民解放軍の昆明軍区の報告書である「対越自衛反撃戦総結」では2月17日から2月27日までにベトナム軍1万5000人を殲滅し、2月28日から3月16日までに3万7000人を殲滅したと主張し、自軍の戦死者は6954人戦傷者は1万4800人ほどだと報告している。一方ベトナム国防省の軍事歴史院が編集した「ベトナム人民軍50年 (1944-1994)」では60万人の中国軍の内2万人が戦死し、4万人が負傷し、合わせて1割の死傷者が出たと記している。ただし、最近のベトナムの新聞(新共和国報)記事に載せられた元将校(阮少雄)のコラムでベトナム側がソビエトの軍事顧問の不適切な助言なども相まって相当な損害を出していたと記したものが出てきている。筆者が指揮した連隊(中国では団と言う)では1,450人中生存者はわずか72人で、筆者自身も左目を失ったと記している。[1]

ベトナムはヘン・サムリン体制を保護するため、その後もカンボジア駐留を続け、1980年6月には隣国ラオスとタイの国境紛争に介入してタイに侵攻するなど、影響力強化のための軍事介入を続けた。改革開放路線であるドイモイ体制が始まって、1989年9月にようやく撤収した。

戦争後
中越関係はその後も改善せず、1979年から1989年まで何度も国境で武力衝突を起こした。

冷戦終結後両国関係はおおむね安定しているが、ベトナムでは自国への侵略戦争として、中国では一般的に中越戦争を裏切り者(ベトナムは中国の支援のもとで対南ベトナム・アメリカの戦争を戦った)への侵攻と認識され、また旧南ベトナムの経済を支配していた華僑への迫害や、ベトナム難民(ボート・ピープル)が20年以来に渡って香港の深刻な社会問題となっていたため、中華圏でのベトナムのイメージは、中越戦争以降悪いままである。なお、懸案であった国境線は2000年代に入って画定した。

ベトナムは戦後、中国に対し中越戦争は侵略戦争として再三謝罪を要請しているが、中国側は、「ベトナムのカンボジアへの軍事的侵略によるものだ」とベトナム側への謝罪を拒否している。

2004年には、ファン・ヴァン・カイ首相と温家宝首相が相互訪問。両国の緊密化は進んだ。2006年8月22日~26日、ノン・ドク・マイン書記長が訪中、胡錦涛総書記と首脳会談。共同プレス発表では、資源エネルギー分野を中心とした協力推進を表明し、「良き隣人、良き友、良き同志、良きパートナー」と中越の関係強化を強調。両国海域を跨ぐ北部湾(トンキン湾)の石油天然ガス田の探査及び開発などの協力を加速させるとした。その後も同年10月末にグエン・タン・ズン首相が南寧での中国・ASEAN首脳会議の際に温家宝首相と会談。11月16日にはAPECのため訪越した胡錦涛主席がノン・ドク・マイン書記長らと会談するなど、活発に首脳交流が行われている。 現代の中越関係は、ベトナム戦争期における社会主義兄弟国としての友情、カンボジア問題をめぐる憎悪と対立を経て、いまやビジネスライクに共通利益を目指す共存関係に変わりつつあるが、南沙諸島の領有権を巡って領土問題は残されており、近年も双方の武装船が相手方漁船を銃撃する事件がたびたび起こっている。

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2009年04月14日 11:40に投稿されたエントリーのページです。

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